昭和49年11月04日 朝の御理解



 御理解 第30節
 「神を信ずる者は多いが、神に信ぜられる者が少ない。」

 神を信ずる者というのは、神様のおかげを信ずると言う所じゃないでしょうか。神に信ぜられる者は少ないというのは、神様の御働きを信ずる。また自分のお願い先と我情で、そこで本当に神様のおかげと言うか。それが段々神様ちゃやっぱ居ござるという程度に信ずる。如何におかげを頂いても如何に神様を、そのようにして信じても、神様が信じなさると言う事にはならない。神様が信じて下さるという。
 それには神様から信じられると言う事が、御神徳を受けると言う事だと思う。神様に信じられる、人にならなければいけません。神様に信じられるおかげを頂きたい。この様な世界が御神徳とは、神様のご信用じゃという風に仰っておられたと言う事です。まさにその通りです。そらもうお参りをしてごらんなさい。もう本当にそこに印が見えますよ。おかげがいただけますよ。
 これは神様を段々信じてきたわけです。それが重なり重なっておかげを頂いて参りますと。体験から神様を信じんわけにいかなくなって来る。だからおかげを受けると言う事は、例えば人が良うても悪うても、おかげは受けられると言う事が分かります。ずるい考えを持っておる。悪い心を持っておると言うても、神様にすがってお願いをすると言う事になると、おかげは見せてもらう事が出来るけれども、神様の神徳を受ける事は出来ない。神様に信じられると言う事は出来ない。
 そこで神様から信じられる私になると言う事が、信心のいわば眼目である。私は若い時分に帳場の前に、小さく紙切れに書いて貼っとった。それには節を大切にする人は伸びると書いておった。節を大切にする人は伸びる。人生に様々な大きな節がやっぱりあります。一年の中にもあります。振り返ってみるとあの時には、ああいう事があった。あん時には、大変なことだったと言った様な、まあそれを節と申しましょうか。一日のうちにでも、やはり節がある。
 例えばそこに難儀を感じる様な事が起きたら、それは節です。腹の立つような問題が起きたら、矢張りそれは節です。だからそういう難儀な問題と感ずる様な事。又は腹の立つ様な問題が起きた様な時。そういう一日の上の節でもです。矢張り大切にして行くと言う事。大事にして行くと言う事。今日は腹を立てんぞと例えば思うておっても、腹を立てたらもう節から折れたようなものです。だから私は今日の御理解神に信じられるという生き方。私はただ節を大切にする者は伸びると言う事は、おかげ願だとおかげを頂きたいというだけのようなものであった。
 御神徳を受けるなんて、そんな大それた事はとても、普通のもんじゃ出来んと思うておった。所が最近私が口を開けば、御神徳を受けると言う事を、皆さんに聞いても貰いますように、教祖のみ教えの全てが御神徳を頂く事のための、道しるべのようなものだというふうに申します。考えてみると矢張り、神様に信用を頂けるような生き方をです。御神徳と言った様な、神様のご信用と言った様な事は、分からんなりに神様のご信用を受けていくための修行が出来ておったように思うです。
 その困った事とか腹の立つような問題はです。神様の御働きと言った様な事は知らなかった訳です。たださまざまな腹の立つような問題があっても、難儀な事があってもです。そこん所を信心で通り折れずに曲がらずに、そこから伸びていく。その節から芽も出りゃ、枝も出るんだと。だからどうでも芽が出らにゃならん、枝が栄えなきゃならん。ただ繁盛のおかげを頂かなければならんと言う事の為にです。まぁ節を大切にしておったように思うのですけれども。
 それがいうならば当てたというか、それが間違いの無い信心の、進めていく上の一つの焦点であったと言う事を思うのです。だから結局節を大切にする人は伸びるだけではなくて、神様のご信用が付く。神様のお徳が頂けれる。何故かと言うと最近分からせて頂いて、皆さんにもお話聞いて貰う様に、それは神様の御働きだったのだから。偶然起きてくると言う事じゃない。
 神様がその人その人に対する所の、御働きなのだから、神様のその御働きを大事にさせて貰うと言う事が、そのまま節を大切にすると言う事であったという風に思うのです。節を大切にせにゃいけませんです。愈々伸びるためには。愈々おかげを頂くためには。そしてそこに気づかせて頂くことはです。その節そのものが神様の御働きであったと言う事です。神様の御働きを粗末にしない。
 大切にするのですから、神様を大切にするのと同じ事です。ですから神様がまた、神を大切にする者を、神様がまた大切にして下さるという事は善を待たない「神を信ずる者は多いけれども、神から信ぜられる者が少ない。」まあ実を言うと神を信ずる者も、実に少ないのです本当は。それは信心を頂いておる人達。こうやってお参りをしておられる方達はです。神様を何とはなしに信じておる。またはある意味では絶対信じておる。というのは例えばほんの僅かでしょう。
 例えばここの合楽と言う村が、百軒なら百軒ぐらいあるでしょう。その中のいうならば十名余りの方が、参っておりますから、十名たった百名のなかの十名だけが、神様をやや信じまたは、確信しておるというだけであって実を言うと、殆どが神を信ずると言った様な事の人は本当に少ないです。神に信ぜられる。神を信ずる者すらが実は少ない。お参りをしてきておると、そこに何とはなしに、これは神様の働きこれこそ、おかげであるという体験が必ず生まれますから、神様を段々信じてくるようになる。
 だからそれは序の口といえば、信心の序の口ですけれども。段々教えを頂けば頂くほど、神様に信じられる道を教えに説いてあるです。神様に信じられる道を説いてあるです。昨日私はこちらへ、お礼に出てくるのが、もう夜の十一時位だった。ちょっと過ぎてました。それで昨日は永瀬さん所の柿狩りに招待を受けておりましたから、少し頂きすぎて、直ぐ帰って休んでおった。
 お風呂も入らず、夕ご飯もいただかんなり休んでおった。それでお風呂へ入って、そしてお礼をさせて貰おうと思うた所が風呂はガヤガヤ言うて、誰かまだ女の人達が入ってましたから、それで奉仕着付けて、そしてこちらに出て参りました。私は節を大切にすると言う事は神様へ対する所の、信心の節度と言う様な事を、先ず大切にしなければいけないと思う。毎日例えば皆さんが、お参りをすると決めたら、毎日そこを大切にしていかなければいけない。これは節を大切にする一つの稽古です。
 所がある事情でお参りが出来なかったならば、お参りが出来なかった、お詫びの印に、家なら家で大祓い三巻、大祓い五巻あげますと言った様な事をなさると、もう節を大事にした事になるわけでしょう。自分の都合の良か時には、芯から拝むもう拝もうごつない時には、拍手いっちょ打たんな終えてしまうと言った様な事ではいけません。この頃夜の食事が、久富先生といつも一緒ですから、必ずお神酒を頂きます。ちゃんともう九時の御祈念に目が覚めた時には、十時と言う様な時がちょいちょいあるんです。
 だから十一時になっても十二時になっても、私は必ずまた紋付袴つけて、御神前に進ませて貰って、まあお詫びさせてもろうたり、お願いさせて貰うわけですけれども、夕べもやっぱそうでした。それからここ御祈念終わらせて頂いてから、お風呂へ入ろうと思って行った所がまあだ誰か入っておるようであるから「誰か入っておるの」ち言うたら、上野先生が「はい」ち。もう十二時ごろだったですやんがて。それからまた暫く部屋さへ行ってから、待たせて頂いていましたら、もう上野先生が上がっておるとこでした。
 そしたら食堂のほうに電気がついておりますもん。
 昨日は久富さんが泊まっておられましたから、久富さんも昨日はそんなふうで疲れておられたので、そのお風呂入らんなり休んでおられたらしい。丁度一緒になった。光がついたら久富さん。「あァた風呂に入り来たっですか」ちて言うたら「はい風呂頂こうと」「ほんなら一緒に入りましょう」と言うて、風呂へ入ったそれから風呂から上がらせて頂いたら、上野先生が風呂の外で待っとりますもん。もう私は二階にあがっとるもんと思うとった。所が今日は何か不思議に、あのご神前で心行くまで、何か御祈念をしたぁい心が致しますので、また改めて奉仕着をつけて。
 只今お風呂から上がって、久富先生がお風呂入るっとる間は、だからここへ来てお広間へ出て、御祈念をさせて頂きよりましたら、電話が架かって参りました。桜井先生からですとこういうわけです。もう十二時ごろはようそれが、誰かお届けがありますからち言うから、それからまた私はあの茶の間で、そのお届けを聞かせて貰いました。桜井先生は、ご承知のように、福岡教会で長く修行された方ですし、桜井家も改式までして教徒になっておられる。それにお母さんが昨日亡くなられた。
 それで洗礼をして頂いたり、今日が告別式ですが、告別式をしてもらわねばならない。そこで大体が唐津におられますし、そのお母さんもちょいちょいではあるけれども、唐津の教会にお参りなさっておられる。唐津は福岡教会の第一の出社でした。それであちらへお願いに行かれましたところが、手続きを持ってこんなら。親教会に一応お届けをなさって、福岡の教会から行けと言われるならば、行っても上げましょうけれどもと言う事であった。それでどうさせて頂こうかと言うて、お伺いに見えましたから。
 私がそれはね、矢張り福岡の教会に一遍お伺いされたがよかろうばい。丁度昨日は福岡の教会の御大祭です。だから御大祭でてんやわんやなさっておられる所に、告別式をお願いします。洗礼をお願いしますと言うても、矢張り折角の御大祭の、雰囲気を壊すような事があっちゃならんから、大祭が終わってから、お出でられたらどうでしょうかと。そして、もう長い事御無礼しとるから、告別式にも行かん洗礼にも行かんと、もし言われるごたる時には、合楽から誰かが参りましょう。
 と言うてなら福岡へ参りますと言うて、福岡へ行かれました。そのご返事が来たというのですから、しかも夜中に来たのですから、ははぁこらもう断れなさったばいなと。そして明日どうぞお願い致しますと言う事だろうと、私は直解したんです。所が上野先生が頂いておる事をそっとメモおる事を、聞かせて頂いたらもう大変におかげを頂いておるんです。成程昨日の朝三時半に私が控えておる所へ。
 お母さんのもう大変もう難しかろうごたる、重態の様子をお届けに見えた時に、襖をこう引き手を頂いて、引いて開くと言う事を頂いた。とにかくお引き取る、命が切れる事をお引取りを頂くと、こういうですけれども。そのお引き取ると言う事と、開けると言う事を頂いたんです。そしたらもう御祈念が済んだ時には亡くなって、五時ちょっと前ぐらいに亡くなっておられます。直ぐ電話が架かってきたから、その事のお届けがありましたそうですけれども。
 まあ本当にお引取りを頂かれて有難いまた神様の有難い世界に、いうならば私の控えはまあ、部屋の中でもここでは一番尊い部屋だとされておる部屋ですし、開いて尊い所へ行かれなさる。言うなら極楽心が出来なさる。そういう教えだろうと、私は言うておりました。所が私は昨日、桜井先生の夜中に電話をかけられた事からです。はぁ開けると言う事は、開くと言う事は、こう言う事でもあったなと思いました。と言うのは。
 昨日桜井先生が御大祭が済んで、あちらへ行かれましたらもう大変喜ばれた。あちらの親先生もそれから親奥様も大変喜ばれて、そしてお母さんが亡くなられたと言う事を聞かれてです。そらもう福岡の親教会から行って上げるどころじゃない。そしてもう最近は桜井さんもう手続きとか何とかと言う様な事は言わんでも良いよて。今はもうそげな時代じゃないて。あぁたが合楽でおかげいただいとるなら、もう今度はお葬式どんが済んだなら、早速私が手続きだけはしてあげるから籍を合楽に変えてあげましょうち。 
 と言うて、まあだ大変その親切な言葉、有難い事を言われた事を、ずっと上野先生に届けられた事をずっとメモしてそのお届けでした。本当にあれがどうでしょおうか。言うならそういう時にです。例えばいいえもう私は福岡には行こうちゃ思いません。もうあちらが、唐津に言うたばってんそげなふうに言わはったから、どうでん親先生合楽でして下さい。と言う様な事は私は節を、おろそかにする事だと思うですね。そこん所を成程長い事御無礼しとりなさいますから行き難うもあったろう。
 又お願いもし難うありなさったろうけれどもです。そこを実意にしておいでられた。いうならばもちろん、ここでお伺いされた時も、私はそれを申しましたから、御大祭が済んだ頃を見計らって、お願いに行きなさいと言うたから、その通りの事をなさった。なるほどお引取りを頂かれた御霊様の働きのおかげで、いうならば自分の今度は道まで開ける事になってきたと言う事です。この問題には私と善導寺と福岡の間に、どうにも出来ない問題があったんですよ。
 桜井先生をここに参らせるごとあんなら、私とも親教会も大変困られるから、参らせてくれるなと言う事であったから、それこそ因果を含めて、もう参ってきてもらわんようにお願いしたんです。それで一年余りお参りがなかった。けれどもやっぱり福岡にもお参りになっとったけれども、どうもしっくりといかん。当時はまあだ福岡におられましたから。それでもやっぱりまた、それを押して参って見えられる時に、私はもう何とも申しませんでした。そしてこちらへ合楽のほうへ引っ越して見えると言う事になりましたから、あんたが参って来て貰うと困るてんなんてんと、言うことは申しませんでした。
 何故かというと福岡善導寺の問題でも、今度言われた時には私もはっきり、言わせて頂こうと言う様な事柄が、次々とあっておりましたから。もう参ってきてもろうちゃ困ると言う事を申しませんでした。そんな状態の中にあったのですから、と言うたらもう福岡にはお参りをなさらないはずですし、また参る雰囲気もなかったんです。けれどもそこん所を、矢張り実意を持って行き難くかったろう、お参りもし難くかったろうけれども。お参りをしてお願いをされたら、向こうではそれを大変に喜ばれたと言う事です。
 そして先生のお気持ちも、全然変わってしもうておって、最近の金光教では、もう手続きなんかは、言うちゃならんと私は思ったと言うて、私がいつも言って居る様な事を仰っておられます。そして今度御葬式どもが済んだならば、どうでも籍を合楽に私が、手続きをとってやるから、一つ本気で道の教師として、折角のおかげを頂いておるから、おかげを頂いてくれと言うて、まぁ言われたと言う事を、大変に喜ばれてその喜びのお礼の電話が、夕べ十二時に架かってきた。
 私はね節を大事にするという事は、色々な形であると思うんです。神様へ向かってだけは、節度を持ってするけれども。事柄の節の場合には、それをおろそかにする。かというと、今度は人間関係のことには、きちっとした事をするけれども、神様のほうには、それこそ、神様の人間の信用を受けるためには精進するけれども、神様の御信用頂く所は、おろそかにするとか。
 日々の上にも起きてくる節があります。一年を経ってみると、尚更大きな節を感じます。あの時も節じゃったろ、あん時も節じゃったろと思いますけれども。その節のたんべんに折れておったり、失敗しておったんでは、伸びようがありません。節から挫折しては言うなら、そっから芽が出る、葉が出るという繁盛にも繋がりません。またそれでは神様のご信用を受けると言った様な事は出来ません。
 神を信じる事が、段々出来るようにならして貰うたら、今度は神様から信じられる生き方を身につけていかなければいけません。昨日の御理解の中にも申しましたように、私共が、人間を本意にするのではない、自分を本意にするのではない。神様のお心を中心にする。神様の思いを中心にする。神様本意で行けばです神様がまた、氏子本意に働いて下さる。その氏子本意こそが神様の御神徳であり、神様のご信用なのであります。
   どうぞ。